ふくしまのデイサービス株式会社彩葉

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大井千加子の部屋

東日本大震災が、私に残した軌跡

2011年

当時、働いていたヨッシーランド(老人保健施設)に異動になり、入所介護長として2年を迎えようとしていました。

職場の様々な問題で、退職者が後を絶たない状態でした。

異動半年後に入所介護長となった私でしたが、上司と意見が合わないことも多く、大人のいじめ?と感じることも多々ありました。

そんな中、職員と施設の利用者様がいつも応援してくれて、それが私にとって非常に励みになっていました。

「介護部門を守り、育てる」を理念として掲げ、多くの職員にも少しずつ情熱が伝わり、志のある職員たちの「もうこの施設を辞めたい」という思いをとどめることが出来ました。

震災当日、来季の期待を胸に、策を練っていた時に地震は起きました。

まさしくその時は、認知専門棟のリーダーと夜の勉強会の打ち合わせをしている最中でした。

携帯電話の緊急地震速報の警告音が鳴ったと同時に激しい揺れに襲われました。
揺れの違う地震が3回あり、2回目にさらに大きな揺れが来ました。その時には椅子から降りて机の下に潜りました。とても長く感じました。

「避難!駐車場に全員避難!!出入口をすべて開けてー!!」と、みんなで叫びながら利用者様を次々と駐車場に移動しました。

極寒の寒さの中、職員や利用者様は待機状態。

利用者様の中には入浴中で慌てて裸にバスタオルやシーツを繰るんでいる方もいました。刺すような浜風に耐え、みんなで固まり何とか凌ぎました。

設置された防災スピーカーからは何も聞こえてきません。
消防や行政の広報車の声もありません。

嫌な予感がした私達は、利用者様を近くの避難所へ誘導しました。
移動中にふと海岸側を見ると不思議な光景が目に入って来ました。防風林の上に白い水しぶきを見たのです。

「何?!・・・津波!!」直感でそう思いました。
「逃げて!津波が来るー!!」大声で叫びました。

轟音と共に真っ黒の巨大な津波が押し寄せて来る!
すべてを飲み込みながら向かってくる。

その時、私の頭の中でたくさんの思い出が走馬灯のように駆け巡ったのです。

死の直前に起こる現象・・・よく聞いた事がありますが、まさにそれです。
23年前に亡くなった母の顔、若い頃の自分、家族の顔、そして二人の孫の顔・・・

消えゆく意識の中で
「違う違う!私は生きる!!!!!」
思い切り瞬きをして頭を左右に振り畑へ走りました。

振り返ると一面真っ黒な波が広がり、その上に施設の屋根だけが見えていました。車も打ち上げられていました。

次の瞬間、津波は逃げている私をのみ込みました。腰までではありましたが、引き浪の強さに体が持っていかれそうになりました。
そして・・・

辺りには真っ黒な泥で埋まった職員や利用者様がいました。
上半身が泥に埋まった方や、その真っ黒な泥に埋もれ、頭皮が剥げて出血をしている方も。誰が誰なのか判別が出来ないほど一面が真っ黒な泥で覆われました。

「・・・助けて・・」弱々しい声が聞こえました。呻き声を上げて震えている方々。

若い女性職員が「介護長!こんなの嫌だー!」と叫びました。この状況で声を上げない方がおかしい・・そんな状況でした。

しかしそうは言っていられません「私たちはこの方たちの命を預かっているの!
今はここから救ってあげる事が仕事なのよ。」
と冷静に話しました。

泥だらけになった職員、一面瓦礫と泥と大木、横転した車が散乱した真っ黒な風景・・・「誰かいませんかー!声を出して下さい!」何度も何度も声をあげて歩きました。

川の土手の瓦礫の中に顔を発見しました。目を閉じて眠っているような顔の部分だけが見えました。泥の田んぼの中に腰の部分が見えました。しかし、どうすることも出来ませんでした。

私を支えて下さったたくさんご利用者様、応援してくれた仲間たちの尊い命。

地震と原発事故による人類史上初の未曾有の大災害。
想像し得ない現状と、深い悲しみの中・・・

助かった利用者様の命を守るために、南相馬を離れることにしました。 避難先は福島の「なごみの郷」という4月開設予定特養。施設長と職員の皆様の心遣いにより、利用者様はやっと安心して休める場所に辿り着きました。

特養の職員の協力を得ながら、避難された利用者様のご家族へ連絡をとりました。
原発事故により行政の指示で強制的に避難することになったご家族の現状と、津波で失くしてしまった情報を繋ぎ合わせる作業は想像以上に時間と手間がかかりました。

2011年4月、故郷の小高区は立入禁止となり、バリケードで封鎖され、警察官が常駐する異様な光景になりました。
両親が福島市での避難生活に疲れて、南相馬へ戻り、高齢夫婦だけで仮設へ入所しました。

息子夫婦と孫は別世帯、福島市内で暮らし始めました。

主人は、復興支援で南相馬を離れることは出来ず、私は、独り暮らしとなりました。

しかし、この独り暮らしは、私を否応なく苦しめたのです。
孤独、涙、悪夢、PTSDに震える生活が2012年3月まで続いたのです。

2017年南相馬市、避難解除命令が出ました。 復興が進み、放射能の危険性はない。住民が生活することに支障はありません!という 政府の判断。
2018年の現在、南相馬市は放射性廃棄物の山が数メートル先にあり、水道という人が生活する上で 大切なインフラも整っておらず、食べ物を買うにも遠く離れたところへ行かないと手にする事が出来ないのです。

当然、若い人たちはこれからの人生を踏まえ移住しました。 しかし、老齢の方々はどうでしょうか? 余生を新たな土地で・・・とは考えません。そうした老齢の方々は皆、生まれ育った南相馬市へ 戻ってきます。 放射性廃棄物の山々、インフラの整っていない、生活環境が整っていないこの土地へ戻ってきます。 ベクレル検査機が数値を刻みます。でも、住民にとっては大切なふるさとなのです。

たくさんの悲しみと絶望を抱えた状態でしたが、私は決意しました。
みんなが南相馬市へ安心して戻ってこられるようなデイサービスを作ろう。 そして戻ってくる方々のお世話をしよう! それが救えなかった方々への私からのせめてもの恩返しになればと。

その想いで 2017年5月、株式会社彩葉を設立。
2017年11月、お元気デイサービス 彩りの丘(介護予防・日常生活支援総合事業・通所介護)を開設。加えて、2018年2月にデイサービスいろは(地域密着型サービス事業・通所介護)を開設しました。

南相馬の空、風、木々、そして、人々・・・。

私はやっぱりここが好き。
だからまっすぐに伝えていきます。

いつの日かまた、ここ南相馬市が本当に復興し、 放射性廃棄物の問題が解決され、住民が戻り、子供たちの声が聞こえる日を信じて・・・

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